よくよく聴いていると、それは更に奥深いことが分かった。
『Royals』は以下の特徴があると思う。
- 都市社会学的な郊外批判。
- アメリカ中心主義的な大衆音楽への異論。
- 郊外に育った人間としての自己言及。
- 社会学的ヤンキー論。
- 貴族政治への憧憬。
そのどの点においても面白い。
そういった現代批判を前面に打ち出した歌手としては、かなり久しぶりの逸材である。
中でも一番強烈なのは、やはり郊外論と自己言及である。
ニュージーランドの都心部にもほど近い住宅街で育った彼女なりの郊外に関する描写。
彼女はカリフォルニアのバレーガールでもなければ、ブルックリンのドン・ディーバでもない。
ブロンクス出身のジェニーでもなければ、兄弟愛の街フィリーの歌姫でもない。
19世紀にポリネシアに建国した島国の、都市部の住宅街に住む十代である。
バスに乗らなければ、どこにも行かれない。
バスに乗るには何十分も寂れたバス停で待機しなければならない。
親の車に乗って、買い物に出かける手もあるけれど、それには親と行動を共にしなければならない。
パーティに行くには電車を使い、いくら持ってきたか、友達と車内でお札を数えるのが関の山だ。
しかしテレビをつければ、ブリンブリンの誇示、貧困街のギャング、大きなプールに庭付きの戸建てでの乱痴気騒ぎ、惚れた腫れたの話、可愛いネェちゃんとの乳繰り合いなどの曲がかかっている。
彼我の懸隔をLordeは感じただろう。
日本とアメリカほどではないが、ニュージーランドの十代の世界とアメリカ西海岸的世界には大きな距離があったはずだ。
それは以下の詞にも表されている。
That kind of luxe just ain't for us.
We crave for different kind of buzz.
仲間内で仕切りキャラになり、ちょっとした女王様気取りで充分、どうせ中世の貴族社会には属することはできないんだから、キャデラックやダイヤモンドごときで、上流階級を気取るなんて野暮である、と唱えるのがLordeの価値観だ。
Royalsはアメリカ的ヒップホップやポップの世界観批判をし、郊外出身の十代の気持ちを表現した。
それに対して、「シャッター商店街を素通りして、仕方なくロードサイドの巨大ショッピングモールに、親の運転で行くしかない人々」が共感した。
東京に例えると、六本木、リムジン、何百万円のワイン、高級時計、湾岸のタワーマンション。
でもせいぜい果ては成り上がりであって、皇族には成れないのであり、そんな世界とは無縁な私は練馬の住宅街から親の運転で入間のショッピングモールに向かうのである。