2017年11月30日木曜日

本当はR&BがやりたかったジェシーJ

ジェシーJと言えば、イギリスではR&B/ポップ系のパワーハウスボーカリストであるが、アメリカではポップのイメージが強い。
全米で売れた「Bang Bang」や「Flashlight」がポップ寄りだったことでそうなってしまった。

しかし、Jessie Jの本領は実は「Price Tag」や「Do It Like A Dude」、「Nobody's Perfect」、「Mama Knows Best」、「Domino」のような音楽だった。
キャリアをつないだセカンドアルバム、アメリカ進出を果たしたサードアルバムも大きな成長であったが、そこは原点とはかけ離れた場所だった。

2017年にはもう一度初期のように、実体験から搾り出した言葉で曲を書き始め、いくつか新曲をリリース。
次のアルバムに向けての再始動をした。

先のSoul Train Awardsではトニ・ブラクストンへのトリビュート演奏に出演。
得意の高音域は抑えてトニ風の低音をしっかり披露した。
すぐ後には元彼であるLuke Jamesも登場するなど縁のある舞台となった。

Soul Train AwardsはBETアワードと並んで、2大黒人系音楽授賞式である。
MTVのVMAやAMA、Grammy Awardsとはゲストが異なる。
白人のゲストは数人しかいない。
しかも英国のポップスターともなれば、尚更呼ばれにくい。

そんな狭き門をくぐったのがJessieで、しかもトニへのトリビュート。
このオファーをもらったとき、ジェシーは泣いたという。
彼女は授賞式の放送時間にインスタグラムストーリーを更新。

泣きながらあのパフォーマンスができたことがとても名誉なことだったこと、たくさんの偉人に囲まれ、今まででもっとも楽しい授賞式だったことなどを語った。

別のインタビューで、自分は歴代の歌の上手い歌手の一人として人々の記憶に刻まれていたいと語った彼女(Amarudontvより)。


Soul Train Awardsはこの世で最も歌の上手いソウルシンガーたちが集まる授賞式と言っても過言ではない。
MTV VMAとはレベルが違う。
Tamar BraxtonもLedisiも素晴らしいパフォーマンスを見せた。
まさにそれはJessieのようなテクニシャンにとって、見るもの全てが輝かしいワンダーランドだったはずである。

なるほど、MTV VMAでは頭一つ抜きん出た歌唱力を見せたJessieも、Soul Train Awardsでは普通かまぁまぁ上手いくらいである。
マイクの音量が小さかったせいもあるかも知れないが、声の迫力が完全に他に負けていた。

声を楽器にした元ヴィダルサスーンのモデルは最近では嫌なことはNoというようにしているそう。
その結果、やりたいことが出来て、今回涙するほど嬉しいパフォーマンスの実現に至ったのかもしれない。

2017年9月9日土曜日

低予算過ぎる洋楽ミュージックビデオ6選

プロモーションビデオといえば、シングル曲として発売された曲を宣伝するために流す映像である。
海外ではミュージックビデオと呼ばれる。

普通は楽曲を宣伝するからにはストーリーがあったり、曲のイメージに沿った演出がされていたりするものだ。
しかし、中には驚くほど簡素なつくりの音楽ビデオもある。

僕が知っている低予算過ぎるミュージックビデオを6つ挙げたい。


1.Janelle Monae - Cold War

こちらはYouTubeからリンクできないようだったので、ここには載せないが、まぁ簡素なジャネール・モネイのシングル曲。
疾走感溢れるロックっぽい曲。
途中でリップシンクに失敗して泣いているのを見ると、フィルムの撮影時間の表示からも分かるとおり、何回も撮り直して失敗している末の悔し涙だったのだろうか。


2.Jessie Ware - Wildest Moments


おそらく一覧の中で最もシンプルなビデオ。
自分はCDショップで試聴をして、この曲が好きでアルバムを買ったので、ビデオを初めて見たときは笑ってしまった。
こんなに低予算な映像で何を一体、販促できるのだろうかと疑問に思った。
しかし、不思議とアーティスティックで、現代アートっぽい感じもする。
ベアリングの付いた椅子を誰かが押していたのだろうかと思うと滑稽でもある。


4.Lorde - Tennis Court
ファーストアルバムからのシングル。
楽曲の作成とシングル曲のビデオはある程度は先行投資で行われる。
デビューシングル『Royals』の収益がまだ入らず、予算が低めとなってしまったのだろうか。
ロードのみの画面というシンプルさではジェシーのビデオに負けてはいない。
でも彼女の音楽は元々音数も少なく、簡素なつくりなのであまり気にならない。
これで曲が派手だったら映像が浮いてしまうけれど。


3.Kelis - Rumble


美術系高校出身でR&B界のビョーク的存在のケリスが料理の勉強を経て出した、久々のシングル曲。
湖面で繰り広げられるソリッドシチュエーション系のビデオだ。
野外ロケだからか、定点撮影だけれども、そこまで予算が低い感じはしない。


4.Labrinth - Jealous


英国のR&Bシンガー、Labrinthも簡素なビデオでバラードを歌っている。
感傷的な曲なので、アーティストの表情がよく分かる、こういう撮り方もいいと思う。
低予算ではあるが、演出が意図的で曲に合っている。


5.Adele - Send My Love (To Your New Lover)

こちらもYouTubeから転載ができないようなので、クリップはなし。
2枚目のアルバムが世界的な大ヒットとなったため、予算がないはずはないのに、いつもどこか簡素なビデオを作るのがアデル。
彼女のビデオで1番ストーリーがあったのはデビューシングルのものくらいではないだろうか。
本人はデスチャなどを聴いて育ったので、きらびやかなビデオが嫌いではないはずだが、もしかしたら、撮影が面倒なのかもしれない。
この曲はアルバムの中でも特に明るい曲なので、いくらでもビデオの作りようがあっただろうに、ただ画面の前で踊るアデルが半透明になって幾重にも重ねられているだけ。



簡素さは意図を持って取り入れると、アーティスティックになる。
だけど相性が重要で、バラードかサスペンス調、音数の少ない音楽向きなのかなと思う。
あまり、音楽に反してむやみにシンプルすぎるのも変な印象を持たせてしまう。

2017年8月18日金曜日

トニ・ブラクストンのように音楽に興味がなくなる人たち

大人になるということは、様々な責任が発生することだ。
社会から「大人らしいふるまい」が求められ、それに従っていく。
キャリアを求めて仕事をこなす毎日で、子どものときに好きだったものへの関心が薄れていく。

一体、どうして大人は子どもの頃に好きだったことに興味を失うのだろうか。
僕は年齢のせいではなく、環境や生活習慣のせいだと思う。
大人になると遊具で遊ばなくなるのは、遊具がない毎日を過ごしているからだ。
それと同じで、音楽を聴かなくなったのは、周囲の人間と音楽の話もしなくなったし、音楽の情報が入ってもこなくなったからだ。


人々はそれに対し、まるで何も感じていないかのようだ。
関心がなくなったことに気付いていない。
気付いたとしても、せいぜい音楽がつまらなくなったから聴かなくなったのだと音楽のせいにするくらいだ。


無いものは証明することはできない。
だから、音楽への興味が無いことを証明することもできない。
こうして益々音楽から遠のいていく。


大人が滑り台を滑ったり、ブランコで遊ぶべきではないという理由はない。
その証拠に、昔は大人が走るなんてことは子供じみていると思われていたのだが、今では大人たちもこぞってジョギングをしているではないか。
風俗の変化で行動様式は変わる。


公園に行かない生活を始めると、周囲の人も公園に行かないのでそれに慣れてしまう。
中学生が小学生のように公園で遊ばないのは、決して公園がつまらなくなったからではない。
他の中学生が公園で遊んでいないからだ。
同じように、音楽のない暮らしを始めると、周囲の人も音楽を聴かないのでそれに慣れてしまう。


歌手のToni Braxtonはかつて、引退をほのめかしていた。
音楽を作る情熱が失せてしまったとインタビューで言っていた。


確かに自然に生きていれば、それはあり得ることだろうと思う。
一度ブレイクを取って、音楽の無い生活を長くしてしまうと、あまりにも衣食住とかけ離れた現代の音楽からそのままフェイドアウトしてしまうのだ。


しかし、そのような生き方をしていると、人生のアンニュイさは積もり積もっていくだろう。
やがて、毎日が灰色になり、それに慣れてしまう。
娯楽のない無趣味な毎日が当たり前になり、感動や興奮、欲求のない日々が過ぎていく。


音楽に関心がなくなるのは、音楽のせいでも年齢のせいでもない。
環境のせいだから、音楽が遠のいていると思ったら、糸をたぐりよせ凧を手に取ろうとするように、音楽を求めて手に取らなければならない。


なぜなら音楽は娯楽であり、趣味であり、気持ちや意見、感覚を音や声で表現するという貴重な行動だから。
他に代替できない、動物的かつ人間的な行いなのに、現代社会では幼稚なものとされすぎていて、「大人らしい」環境から排除されてしまっている。


純潔さと幼児性を売りにしている女性アイドルや体裁を取ることばかりの男性アイドルのおもちゃと化した音楽。
人々が田畑で鍬や鎌を振りながら、あるいは男と女が逢瀬で、あるいは何らかの精霊を祭りながら、あるいは夜通し馬鹿騒ぎをしながら奏でた音楽はどこへいったのか。


周りに流されるのではなく、本質を大事にしたいと思う。
音楽を聴かない環境によって音楽から遠のくのではなく、音楽とは何なのかを考えて接していきたい。
それは音楽だけでなく、かつて子どもの趣味の代名詞だったアニメや漫画もそうだし、公園で遊ぶことやカブトムシ取りもそうだ。

2017年4月11日火曜日

白人の肌感覚のアリシア・キーズ

誰でもキム・カーダシアンやジェニファー・ロペスのようになれるシェーディングメイク。
これをすれば顔の部位の高さに合わせて大胆に影とハイライトを入れることができ、舞台映えするレッドカーペット仕様のお顔の出来上がりである。


このようなシェーディングメイク(contour makeup)が流行る中、すっぴんを決め込む女性がいた。
アリシア・キーズだった。


すっぴんだの、妊婦ヌードだの、ありのままの<私>でいることも大変である。
このような素肌や裸が注目されるようになったのはいつからだろうか。


僕の場合、記憶の中で一番古いマタニティ・ヌードはブリトニー・スピアーズで、一番最近がビヨンセだ。
だが調べてみると、1991年にすでに身重のデミ・ムーアが裸で雑誌の表紙を飾っているようだ。


ノーメイク運動もいつから始まったのかはよく分からない。
しかし、数年前からハリウッド女優やモデル、歌手が「すっぴん」と称して自分の写真をソーシャルメディアに載せていたのは確かだ。


ハリウッド映画界やモデル界は、いかに内面から美しくいるかとか、ヨガやキックボクシングをして肉食を断つとか、そういった美意識高め系のクラスターが大多数だと思うので、「すっぴんも美しく」という感覚は分かる。
これは素の美しさを究極的な美しさとみなす美意識とも取れる。


10年くらい前に、韓国では美しいすっぴんがブームになっていると聞いたことがある。
美容熱も行き過ぎるとそこまで行くかと当時は思ったが、何だ、時代を先取りしていたのではないか。


素肌美を自慢するハリウッド・モデル界の大多数とは別に、子どものころに容姿のせいでいじめに遭い、長らく自分自身の容貌が嫌いで自信がなかったけど、大人になって自分の美に気がついたというデミ・ロヴァートのような人もいる。


アリシアも昔から化粧という名の他人の目を気にした行為が嫌いだったというから、デミと同じく、解放型である。


ハリウッド・モデル界の自称すっぴん画像が、もれなく風呂上りの光の反射が良い瞬間だったり、目や唇だけ化粧を施していたりすることがあるが、やはり、それも美意識のなせる技――。
彼らにとっては、本当に文字通りすっぴんであることよりも、結局は美しくあればそれでいいのだ。


2016年5月くらいからすっぴん運動を始めたアリシアはというと、化粧水・乳液くらいは付けてるのだろうか。どこまでをすっぴんと呼べるのか。実はアリシアの場合はアイシングをしたり、オイルを塗ったりして、すっぴんながら、肌の血色がよく見えるようにそれなりに工夫をしているらしい。
さすがに起き抜けの顔ではレッドカーペットの上を歩けないようだ。


ところで、このすっぴん運動、あまり黒人の参加が見られない。
アリシアが他人の目を気にするのを止めた一方、黒人たちは各々が好きなウィーブを身につけ、ネイルもばっちり、顔はシェーディングメイクで派手に宜しくやっているのであった。


黒人は元々、「Black don't crack」などという常套句があるくらい、老けて見えにくいと言う。
おそらく素肌の美しさ自体には自信があるはずである。


白人の賛同者が多いすっぴん運動だが、誰が賛同しようと、反対しようとアリシアは気にしないだろう。
それがそもそも、この運動の初心だったはずだからだ。

2017年3月31日金曜日

アリシア・キーズは次なるローリン・ヒルたり得るか

ピアノ弾きのヒップホップ才女として華々しいデビューを飾ったアリシア・キーズは2016年に6枚目のアルバム『Here』をリリースした。
夏に『In Common』をリリースして、割と流行の洞窟並みにリバーブかかりまくりのトロピカルトラックを歌ったかと思うと、すっぴん宣言をしたりしてメディア露出を繰り広げた。



その後リリースした曲『Blended Family』では混血家族、一夫多妻的家族、婚外子も前妻も含んだ大きな家族の絆を歌う。
アルバム発売前に発表されたビデオ『The Gospel』はアフリカンアメリカンカルチャー、ストリートの現実を特集したドキュメンタリー風な映像だった。
ここで、何か大きなテーマを抱えた作品が控えていることを直感した人は多かっただろう。
数年前からのBlack Lives Matter運動を想起した人もいただろう。



そしてアルバムリリースに至る。
母殺し(および母なる大地である地球を汚染すること)、同性愛、自尊心を持つこと、不安、偏見や一方的な決め付けの打破(トランプ大統領への応答)など、大きな社会問題ともなり得れば、個人の心の問題ともなり得る多様なテーマの曲が並ぶ。
彼女にありがちな純愛を歌うクラシックソウル風のラブソングはほとんどない。



こうしてみると、2010年代のローリンヒル的アルバムと言われてもおかしくないクオリティではある。
音楽的にもブルースっぽい曲、ゴスペル、レゲエ調、ストリート音楽などローリンに引けをとらない幅広さを誇る。
頭脳明晰さを考えても、アリシアならローリン並みの啓蒙的アルバムを作れるはずである。



何が違うのか。
それは宗教性だ。
ローリンはラップで鍛え上げた冗長的で説得力のある作詞能力があった。
ラップという形式上、たくさんの言葉を並べることが出来るし、歌にするには関係なさ過ぎることも盛り込むことが出来、メッセージを伝えるには有利である。
ローリンは全体的に宗教色が強く、コーラスワークもクワイヤ的な性格を帯びている。



一方、アリシアは基本的にクールな弾き語りシンガーだ。
彼女の詞は叙述的で、個別的、ストーリーがある。
歌なので、歴史上の人物名や聖書の話はほとんど出てこない。
その時々に旬な歌手と共演したり、対象年齢の低そうな分かりやすい歌もあったりする。
コーラスワークはR&B的、ソウル的な手法を取る。



歴史上、芸術と宗教は密接に関係してきた。
大衆化した技術は芸術とは呼びにくくなってしまう。
ワルツはミサ曲にはなりえない。



アリシアは曲中で社会問題を取り扱えど、宗教的な結論に至るのではなく、やはりどことなく大衆性を持っていて、ソウルミュージックを演奏してはいても、実は根っこのところは結構ロックなのではないだろうか。

2017年1月18日水曜日

結局、今一番歌が上手い女性ソウル/R&Bシンガーは誰?

ホイットニーが永逝し、マライアがかつての声を失った今、売れ行きやメジャーさは抜きにして、一番バランスが取れていて上手いと感じる女性ソウル/R&Bシンガーは誰だろうか。
僕が上手いと感じる人を挙げてみた。



Jazmin Sullivan
10代のころから歌うま少女として界隈では有名で、グラミー賞にも度々ノミネートされてきた1987年生まれの歌手。
ゴスペルが下地にあり、太くてあまり高くない声ながら高音域では声が割れるというか、複雑な音を発するのが特徴的。
もっとも美しいボーカルランを聴かせる歌手の一人だと思う。
近年では辞めるとか辞めないとかの噂が絶えないので、アメリカのちあきなおみと化してしまう可能性も。



Jennifer Hudson
2004年のAmerican Idolファイナリストで、2009年にグラミー賞を受賞した1981年生まれの歌手。
ゴスペルを下地にしたパワーと高い声域をミドルボイスで出してしまう器質的な才能と、ロングトーンなどのテクニックが聴く者を圧倒する。
ビヨンセよりも輝いた映画『ドリームガールズ』の出演や肉親を殺害される悲劇に見舞われた後の復帰パフォーマンス、プリンスのトリビュートなど、ドラマチックな舞台も多く経験し、その分、聴衆からの信頼度は高い。



Jessie J
パフォーミングアーツの高校でアデルやレオナ・ルイスと同学年だった、1988年ロンドン生まれのシンガー。
ポップからロック、ソウル、R&B、バラードまで何でも歌いこなすバランスを持っていて、特筆すべきはライブでの声の運動神経である。
高音のミドルボイスから、繊細なボーカルラン、張りのあるロングトーンを次々に繰り出し、体育会系ロック歌手のようなステージを見せる。



Keke Wyatt
10歳から裏方仕事をしていて、15歳で日の目を見た1982年生まれの歌手。
ゴスペルやオペラを下地にした、艶のある歌声で高音域も得意。
安定感があり、ボーカルランや装飾が繊細で美しい。
近年はリアリティ番組に出演するなど、タレント業にも精を出している。



Tamar Braxton
トニ・ブラクストンの姉妹の末っ子で、姉妹コーラスグループを経てソロに転身した、1977年生まれの歌手。
ゴスペルを下地にした、太さのある声ながら、なかなか出せる人は多くない高音のミドルボイスを聴かせる。
ボーカルランや装飾の引き出しも多く、さすがは姉妹でよくゴスペルを歌っているだけある。
体調不良などでアルバムのPRが出来ず、不遇は続くが、リアリティー番組に出演し、そのドラァグクイーン風の立ち居振る舞いで人目を引くなど、タレント活動も多い。



さて、思いつく限り、現在活躍中の上手い女性歌手を挙げてみた。
他にもいるとは思うが、それでもこれらの人々はランクに入ってくると思う。
この中で自分が一番上手いと思うのはテイマー・ブラクストンだ。
テイマーと比べると、キキ、ジェシーJは声に太さが足りなく、ジャズミンは高さ、Jハドは繊細さに欠ける。
テイマーは2017年1月の時点で3枚のアルバムを出しているので、知らない方は是非聴いてみていただきたい。

2017年1月7日土曜日

Soul Train Awards 2016のエリカ・バドゥと紅白歌合戦のタモリ・マツコの寸劇

Soul Train Awards 2016をインターネットで閲覧した。
まさかのErykah Badu司会である。
そして、まさかのなかなかのギャグセンスである。
会場を割りと沸かせていた。

授賞式としては、面白いと思ったのはBest hip-hop Song of the yearがRhythm and bars賞に変わっていたことだ。
確かにDTMでHip Hopの曲を作ろうと思ったら、目の前のモニターにあるのは小節であり、耳に聞こえるのはリズムである。

Lady of SoulとしてBrandyが選ばれたのは不思議だった。
最近作品を出したわけではないし、出演する代わりに賞をくれと交渉したのだろうか。
去年がJill Scottの受賞だったので、流れ的にはAngie Stoneの方が適切な気もするが。

先述のMC Erykahであるが、中間と最後に寸劇を挟んでいる。
自称ボイスコーチのMs. Irma Ervingとして授賞式に侵入を図る。
華やかな格好で現れ、「ここにいる歌手の全員のボイスコーチをしている」とバウンサーに豪語する。
しかし、そのメイクは志村けんばりのコメディ仕様なのだ。

これが去年末の紅白歌合戦のマツコ・デラックスとタモリによる寸劇を思わせた。
会場に到着し、ガードマンに止められながらも侵入し、舞台に上がり、出て行くまでのあの熟年夫婦である。
紅白の二人は自主的に帰っていくが、Soul Train AwardsのMs. Ervingは結局つまみ出されることとなる。

マツコ・デラックス&タモリの寸劇は尺が長く、しかも即興と思われるのでコメディ要素を持たせるのは難しいだろう。
二人のショーマンシップに全てがかかっている。
しかし、それを敢えてやらせたのは、かつてフジテレビの27時間テレビで同局が「嫌われている局ナンバーワン」という雑誌記事に関する発言をぶち込んだり、別の生放送番組で「デモ以降大変」と述べるなど視聴者の気持ちをハプニング的に代弁してきたマツコと、客観的な批判が出来る緩衝材のようなタモリの化学反応を見せたかったからであろう。そして、それが見たい視聴者は一定数いたと思うので、その点で成功だったと思う。

Soul Train Awardsの寸劇はロケであり、コメディなので、授賞式の娯楽性を強める働きがあった。
両者を眺めたときに、寸劇の存在価値は尺の上に成り立っていることが分かる。
尺が寸劇の生命維持装置である。
尺が有り余った寸劇は冗長性を帯び、中だるみし、もはや「寸」劇ではなくなる。
その意味で、マツコ・タモリの寸劇はもっと短時間の物を多くやる方が良かったと思う。