2017年8月18日金曜日

トニ・ブラクストンのように音楽に興味がなくなる人たち

大人になるということは、様々な責任が発生することだ。
社会から「大人らしいふるまい」が求められ、それに従っていく。
キャリアを求めて仕事をこなす毎日で、子どものときに好きだったものへの関心が薄れていく。

一体、どうして大人は子どもの頃に好きだったことに興味を失うのだろうか。
僕は年齢のせいではなく、環境や生活習慣のせいだと思う。
大人になると遊具で遊ばなくなるのは、遊具がない毎日を過ごしているからだ。
それと同じで、音楽を聴かなくなったのは、周囲の人間と音楽の話もしなくなったし、音楽の情報が入ってもこなくなったからだ。


人々はそれに対し、まるで何も感じていないかのようだ。
関心がなくなったことに気付いていない。
気付いたとしても、せいぜい音楽がつまらなくなったから聴かなくなったのだと音楽のせいにするくらいだ。


無いものは証明することはできない。
だから、音楽への興味が無いことを証明することもできない。
こうして益々音楽から遠のいていく。


大人が滑り台を滑ったり、ブランコで遊ぶべきではないという理由はない。
その証拠に、昔は大人が走るなんてことは子供じみていると思われていたのだが、今では大人たちもこぞってジョギングをしているではないか。
風俗の変化で行動様式は変わる。


公園に行かない生活を始めると、周囲の人も公園に行かないのでそれに慣れてしまう。
中学生が小学生のように公園で遊ばないのは、決して公園がつまらなくなったからではない。
他の中学生が公園で遊んでいないからだ。
同じように、音楽のない暮らしを始めると、周囲の人も音楽を聴かないのでそれに慣れてしまう。


歌手のToni Braxtonはかつて、引退をほのめかしていた。
音楽を作る情熱が失せてしまったとインタビューで言っていた。


確かに自然に生きていれば、それはあり得ることだろうと思う。
一度ブレイクを取って、音楽の無い生活を長くしてしまうと、あまりにも衣食住とかけ離れた現代の音楽からそのままフェイドアウトしてしまうのだ。


しかし、そのような生き方をしていると、人生のアンニュイさは積もり積もっていくだろう。
やがて、毎日が灰色になり、それに慣れてしまう。
娯楽のない無趣味な毎日が当たり前になり、感動や興奮、欲求のない日々が過ぎていく。


音楽に関心がなくなるのは、音楽のせいでも年齢のせいでもない。
環境のせいだから、音楽が遠のいていると思ったら、糸をたぐりよせ凧を手に取ろうとするように、音楽を求めて手に取らなければならない。


なぜなら音楽は娯楽であり、趣味であり、気持ちや意見、感覚を音や声で表現するという貴重な行動だから。
他に代替できない、動物的かつ人間的な行いなのに、現代社会では幼稚なものとされすぎていて、「大人らしい」環境から排除されてしまっている。


純潔さと幼児性を売りにしている女性アイドルや体裁を取ることばかりの男性アイドルのおもちゃと化した音楽。
人々が田畑で鍬や鎌を振りながら、あるいは男と女が逢瀬で、あるいは何らかの精霊を祭りながら、あるいは夜通し馬鹿騒ぎをしながら奏でた音楽はどこへいったのか。


周りに流されるのではなく、本質を大事にしたいと思う。
音楽を聴かない環境によって音楽から遠のくのではなく、音楽とは何なのかを考えて接していきたい。
それは音楽だけでなく、かつて子どもの趣味の代名詞だったアニメや漫画もそうだし、公園で遊ぶことやカブトムシ取りもそうだ。